芭蕉句碑(松尾芭蕉と中尊寺)
芭蕉句碑
岩手県、平泉町ににある中尊寺。
なかでも一番有名なのが中尊寺金色堂ではないでしょうか。
この金色堂は、1124年に奥州藤原氏、初代の清衡によって作られました。
現在も多くの観光客がこの金色堂を一目見ようと、中尊寺を訪れています。
ツアーなどでも必ず中尊寺がルートに入っているようです。
こちらには藤原三代の遺骸が
納められているとのことで大変歴史を感じることが出来る場所となっています。
この金色堂の脇に、ひっそりと建っているのが芭蕉句碑です。
松尾芭蕉は、この金色堂に立ち寄った際に
「五月雨の降のこしてや光堂」という句を詠みました。
この有名な句を芭蕉が詠んだなんと
57年後の1746年にこの芭蕉句碑建てられました。
年代的には江戸時代ということになります。
中尊寺と毛越寺にはどちらにも芭蕉句碑があるわけですが、
やはり中尊寺のほうが歴史を感じられる句碑となっています。
句碑の大きさは小さく、彫られた句の文字もだいぶ薄くなっています。
金色堂の輝かしさが先立ってあまり目に付かないかもしれませんが、
訪れた際にはしっかりと、この句碑を見て欲しいと思います。
もちろんその句にも目を通して欲しいと思います。
松尾芭蕉はこのように全国各地にその場所を詠んだ句を残していきました。
俳句や歴史に触れることで、
よりその土地のことに興味がわくかもしれませんね。
世界遺産である平泉の中尊寺は見所が
たくさんある場所なので、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
芭蕉句碑
松尾芭蕉と中尊寺
源義経が平泉に自害し、奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる元禄2年(1689)、松尾芭蕉は門人の曽良と2人、「奥の細道」の旅に出ます。芭蕉46才、曽良41才の春です。江戸を発ってから44日後の5月13日、細道のはて平泉を訪れた芭蕉は、まず義経公の居館があったと伝えられる高館の丘陵にのぼります。丘の頂きに忽然とあらわれるのは束稲山のふもとに悠然と横たわる北上川と、それに合する衣川。そこには往時の栄華はなく、旧跡は田野となってひろがっているばかりです。
夏草や 兵どもが 夢の跡
「国破れて山河あり、城春にして草木深し」という杜甫の句を思い起こしながら芭蕉はしばらく高館に笠を下ろします。 続いて中尊寺を訪れた芭蕉は、かねてより伝え聞いていた金色堂に参詣します。鎌倉北条氏によって建てられたといわれる覆堂の中で、朽ち果てた金色堂はかろうじて光を投げかけます
五月雨の 降残してや 光堂
金色堂を光堂と称したのも、仏と人との間に介在する光と、その光の彼方にある盛衰の歴史に、芭蕉のまなざしが向けられていたからに相違ありません。
以上
関山 中尊寺 http://www.chusonji.or.jp/
「中尊寺の歴史」から引用 http://www.chusonji.or.jp/guide/history/matsuobasyo.html
松尾芭蕉と中尊寺
松尾芭蕉と中尊寺
句碑(くひ)とは?
句碑(くひ)の意味を調べてみました・・・石碑から由来してます。
『石碑 (せきひ stele,stelae,stela) とは、人類が何らかの目的をもって銘文を刻んで建立した石の総称。「いしぶみ」「碑」ともいう。墓石のような他の目的として使用されずに、銘文が刻まれていること自体に目的があるものをいう。(ただし、英語の stele の場合は、木製のものや墓碑も含む場合がある)なお、何かの記念として建てられたものを記念碑(きねんひ)、和歌や歌詞を刻んだものを歌碑(かひ)、俳句を刻んだものを句碑(くひ)という。』